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家系図の不思議

松崎整道居士 講演

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九 墓相について

支那の堪輿及び風水学

墓相のことは支那には早く三四千年の昔、宅托を占うとのことより起こりましたので、すなわち秦に朱仙記、漢には青烏の実経、晋には郭璞の図経、陶侃の捉脈賦などありまして、その後地理の書など枚挙に暇がないほどでありますが、多くは方術家の異説にして、聖賢の旨に背くものも少なからずあるとかの事であります。
殷人の墓誌に、右に林、左に泉、後ろには岡、前には道などとあるのを見ますと、支那には最も古くより行われたとものと見えます。今も支那においては死人があることに方位を選んであちらに埋め、こちらに葬るとの習慣があります。

聖徳太子及び源頼朝の墓

本邦においては聖徳太子が河内の科長の墓を造営の折、ここを断て、あそこを切れと、その子孫を欲しないと図られましたことは、太子伝や徒然草にも見えます。また吾妻鏡脱漏には鎌倉の右大将頼朝の墓のことについての記述が有り、親の墓が高い所にあり、その下に住まいすればその子孫が必ず絶えるとあります。鎌倉にあるその頼朝の墓は、今は多くの個人邸宅が建て並んでおりますが、昔鎌倉幕府のあった所のすぐ後ろの丘上にたしか石の五層塔であったと記憶しております。その附近に大江廣元の墓や、島津家祖先の墓なども在ったように覚えております。わが国中古には山陵、墳墓の制度があり、葬儀を記録した書物のうちには葬法密または葬送式などがあります。
墓相を論じ、昭穆の序を正すは吉凶軍賓嘉の五禮の一つにして、治術の要道などと申し、孝経にはその宅兆を卜して安措すといえ、禮記には天子の墳は高さ三稚、松を植え、諸侯は天 子の半ばにして柏を植え、大夫は八尺、柳を植え、士は四尺、楡を植え、周禮に家人、墓大夫などとともに墓地を掌り図を造りて兆域を弁ずなどとあります。その後大墓を起こすこと 盛んに行われて、燕の昭王、秦の始皇などが大陵の類多いのであります。
呂氏春秋に大墓は、富を示さんには可ならんも、死を葬るには如何か、必ずこれを発掘するものあるにいたるは、哀しき業なるよしを論じられました。しかし、死生禮重し、墨子が薄葬の説は禮にあらざるよしを、荀子は論ずるに至りました。孝行の子、必ずやおろそかに思うべからずなどといえる。
このように支那及びわが国におきましても、墓相のことは古くより言い伝えられ、またこれが行われたこともありますが、それはいずれも墓所に関する地相の選択と、またその方位方角に関するものであり、今日なお支那においては、これに関する書籍は少なからず有り、私の調べたところを挙げればおおむね下記のようであり、その他私の知らないものは如何ほどあるかはかりしれません。

地理正相 地理要録 地理末学 地理知本金鎖秘 穿透真伝 乾坤法竅
平砂玉尺経 郭璞葬経 水龍経 羅経解定 陰陽二宅全書 陽宅大全 陽宅紫府宝鑑 堪輿易知

堪輿の術、風水の学と称しこれに関する諸家の解説もまた多数ありますが、これらの書籍はいずれも字句難解の漢書であるため、よほど漢籍に造詣が深いものでなければ、これを読んでもその内容を理解できることは容易ではありません。

日本の墓相家

わが国文政の頃に高田松屋という学者がおり、墓相或問、または図式とか、あるいはまたその門下が筆記したものをまとめ、墓相小言という小冊子を刊行されました。
その説の骨子はやはり支那の堪輿風水の学を伝えることが多いのみならず、多くは口伝などと称し肝心の点をのべていないのは、読者が遺憾に思うことが多いと思います。

石碑石塔の調査研究

さて私の調査研究したものはこれとは異なります。すなわち、石碑石塔に限定して全国と申しましても、九州及び中国の一部、近畿、北陸、東北地方、それに関東は勿論、東山及び東海道の各地、これに四国の一部と北海道の一円に亘りまして見た墓を資料としてこれを統計的に調べ、学問的に研究して得た結論がすなわち私の墓相です。
その吉凶善悪及びその他の諸相についての概略は、これまで述べてきましたから、皆さんはほぼご承知くださったことと信じますのでその部分は重ねて申しません。
しかし漏れたところと、石碑石塔の調査研究に伴い、地相や方位の関係で多少うかがい知ったこともありますので、これよりそれを述べることにいたします。

奇形の墓

この土地、どこの墓所に行きましても奇人という人がいるように、墓にも奇物が少なくありません。
たとえば菰冠りの酒樽を模した石碑に石の徳利の花立、同じく石の盃の水鉢を添えたもの、あるいは猫足の膳に模した台石に徳利の棹石を置き、これに盃の形の石をかぶせたもの、あるいはまた、ビール瓶のを模した棹石、あるいはまた、碁盤を模した台石に碁笥に模した一対の石を左右に置き、四角や丸い形の棹石を建てた物、あるいは将棋盤に似せた台石に駒の形の棹石といったものなどがあります。
将棋の墓といえば、わが国将棋の名家、すなわち大橋宗桂の家の墓は、芝二本榎の上行寺という、かの元禄に名高き俳諧師、宝井其角の墓のあるところで、日蓮宗のお寺でありますが、其の大橋家の墓所には流石将棋の名家なのか、どれも将棋の駒の形の墓ばかり五基あります。宗桂の墓石の背面には桂馬と彫られてあり、そのほかのものには金、銀、香車などの文字が彫刻されており、中に最も振るった戒名のもがあります。それは宗桂院一定即日と(成り金)居士というので、宗桂の養子か孫か分からぬが即日成金居士というその成金は、将棋の駒の歩の裏の文字、すなわち「と」と言う字でありまして随分振るったものでありました。
その他、鉄砲の弾を模した石に石の鉄砲を建てたもの、その他あれやこれや枚挙に暇がないほど様々な奇形のお墓を造る人があります。銃猟が好きだったから鉄砲、碁盤や将棋の駒や酒樽など、それぞれの亡者が在世の時に好んで嗜んだからといってこれを墓にまでするに至ったのでしょうが、これら奇形の墓はことごとく跡がない、必ず子孫が絶えますから最も注意を要します。

墓相上の霊知霊感

霊知霊感ともいうべきものがしばしばありますので、その一例をお話いたします。
先年北海道へ行きまして、札幌附近の墓地をあちこち見まして旅館に戻り、同夜多数集まった同地の人々に墓の話をいたしました。
その折、今日どこそこでこういう墓を見ましたが、その人は随分すごい人であったように思いますが、どなたかあの墓の主人を知った方は有りませんかと尋ねましたら、知っております、知っておりますと言う人がありまして、その人が言うには、あの人はお尋ねの通りすごい人でありました。しかし何でも何か思惑が外れ大損をし、銀行に何万円かの借金が出来たがそれを返済することが出来なくなり、鉄砲で自殺されたとのことでした。
あの人はそういうことで鉄砲で死んだか知りませんが、そうではなく、私の感じたところでは、あのお墓の主人は確かに人を斬ったことがあるに相違ない。どなたか皆さんの中にそれを知っているかたがありませんかと再び尋ねましたら、一人の老人が大変驚いて申すに、どうも驚かずにはおられません。
お墓を見てあの人が人を斬ったことが分かるとは、実に不思議を禁じえません。
あの人は、私と同じ奥州白石藩のものでして、維新後藩中ほとんど悉くこの札幌附近に移り住んだのでありますが、まだ藩の時代、國にあってあの人も二十歳そこそこの若盛りの折、藩では午後の六時以後城外に出ることは禁じてありましたので、若い者などは城外に遊びに出る時などはいずれも覆面をして出たそうです。ある時城下近くの村落に縁日で人出の多い盛り場がありましたが、その盛り場で人殺しがありました。城下と申しましても奥州の田舎のこと、随分大騒ぎとなりましたが、その犯人が終にわからないで終わったことがありました。
しかしその後藩中悉く北海道へ移住しまして年数もよほど経ってのこと、何かその土地に祝い事があって人の集まった時にいろいろ昔話が出ました際、あの人が昔、国元白石城外の盛り場の人殺しは自分であったと語られたそうですが、それがお墓で分かるとは、真に驚かずにはいられませんと、語られました。
その墓は高さ四尺ばかり、幅三尺四方ぐらい、切石を積み上げた台石の上に四五尺ほどの自然石の石碑でありました。

お墓と地相

それから地相の関係を述べますと、日陰の土地及び崖地、または窪地などに建てられた墓のある家は、振るわないで終わるようです。また墓の背面が低き土地になって居るのもその家は発展せず、栄えないで段々と枯れていく家が多いようです。

墓石を疎略に取り扱わざること

もちろん墓所の整理と言うことは必要なことでありますから、石塔の処理と言うことは当然です。
そこでこれを動かすのはよろしいが、それを潰したり、再利用などはしないで、同様な無縁墓を一ヶ所に集め祭壇を造り、これにその石塔を何本、何十本、または何百何千本でもそのままの姿で並べ、供養するのであります。

墓相は百相の根源なり

物には総て善悪の相があり、善相は良く、悪相は悪しきことはいうまでもないが、荀子は形を相することは心を論じるにしかずと申しました。その心みな形に従えば、相なきにしかずですが、人相、家相、骨相をはじめ万物ことごとく善悪の相をそなえざるはないが、つとめて好相を選ぶべきは、勿論であるが、なかでも先祖墳墓の地をおろそかにすれば、衆善ことごとくこれがために掩われて禍を受け、これをよく祀れば衆悪ことごとく消滅して幸福を受けますれば、この墓相は百相の本であるというのもまた可なりと存じます。
昔の本に、墓相悪しき家は重病悪疾の患いあり、淫乱放佚の乱あり、争訟刑戮の難あり、貧賎災厄の苦あり、子孫断絶の悲しみあり、水難盗難の禍あり、悪子不臣の憂いあり、神仏に祈り、巫医をやといて百計すれどもその験(しるし)なきは、多くは先祖の墳墓の悪しきによれり、以ってこれを治むれば必ず応(しるし)あるべしなどとあります。

墓所は不浄を忌む

墓所は父祖精霊の居所であるから不浄を忌みまして、よく垢埃を払い、香木または香花などを植えて綺麗にし、時々その墓を洗い清めて清浄にして祀ることが、最も肝要なことであります。
父祖霊魂の居所を穢し荒らす時は、子孫がその祟り蒙り、難苦または子孫断絶するに至るので最も注意が必要であります。
真に長い時間ご清聴を汚しました、のみならず実例として度々くどいお話を申しましたが、これでも腹稿の何分の一しか申しておりませんが、多少なりともご参考になりますれば幸せに存じます。なお分かりかねた点や洩れたところもございましょうが、それはまた他日機会がございましたらこれを補うことといたしまして、今日はこれをもってお別れといたします。

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