亡者の鰥寡孤独(かんかこどく)
およそこの世の中で鰥寡孤独(妻のいない夫、夫のいない妻、親のいない子供、子供のいない老人)の四つのものほど気の毒なものはなく、不憫なものはございません。すなわち老いて養う子がないもの、幼にして養う親のないもの、また身寄り他寄りのない孤独のものなどであります。
また人が死んで後、これを祀るもののない仏、またあっても後にそれが絶え終に無縁の仏となったもの。これは世の中の鰥寡孤独と均しく、気の毒なものであり、また憐れなものであります。
現世におけるそれらのためには、養老院とかあるいは孤児院とかそれぞれ社会の事業としてこれを養育し、これを慰める機関がありますが、目に見えぬ無縁仏、口をきかぬ無縁墓、これは誰が養育いや祭祀供養するのでしょうか。
三界萬霊供養
あちらこちらのお寺へまいりますと、よく三界萬霊と記した石塔が建っております。
これはその無縁仏を祀ったものでございましょう。
それからまた、無縁墓、すなわち無縁となった石塔を一ヶ所に集めて祀ってあるのを見ますが、これにはどうも、感心できるように祀ってあるのはほとんど見受けません。
そればかりか、多くはその無縁の墓を何か他に利用するとか。または、これを潰してしまうのが、多いようです。誠に嘆かわしいことであります。
なぜならば、無縁の墓を粗末にするとその霊は世の中に放浪し、徳のない人、徳の欠けた人、または徳の薄い人などに憑依してこの世の中に様々な災いをかもしだします。
足利市法玄寺の無縁塔
私は多年功徳のため、この無縁墓をあつめましてあちこちに無縁塔を造りました。
今もなお所々に建立しつつありますが、先年、足利の法玄寺という浄土宗のお寺の無縁塔建立のお手伝いをいたしました。
その無縁の石塔は約千本ばかりございましたが、ここにお伝えすべきお話がございます。
その約千本の無縁墓を祀る祭壇を造る起工式を行うので、その年の六月八日に出てまいりまして、祭壇築造の場所を選びましたところ、一本の植木が障りますので、その木を他に移すこととして、起工式はつつがなく終わりました。
五輪塔の発掘
私その後その木を掘らせますと、樹下の地内より一基の五輪塔が出現いたしました。転んであったのを掘りあげて重ねて見ますと、相当古い時代のもので、よく見ると鎌倉時代の五輪塔でありました。さらによく調べますと、これは足利家二代義兼の室、時子姫のお墓でした。鎌倉の壽福寺にある源頼朝の室、政子の墓、すなわちこの時子姫の姉公の墓に酷似したものであります。
この法玄寺にその墓があるということは、諸記録に明らかであっったが、これまでずいぶん探したそうですが見当たらなかったものが、このたび無縁塔を造るにあたりここに現れるに至ったが、さらに一層不思議を禁じえないのは、何の考えもなく決めたこの起工式の月日が、あたかも七百三十余年前、時子姫が亡くなられた祥月命日にあたる六月八日であったのであります。
無縁塔の建立と不思議な出来事
無縁塔の建立については、いつも何か不思議なことに出会うので、今ではそれが当然のことのように思います。
この頃、と申しましても昨冬のこと、私に関係のある桐生の大蔵院という天台宗のお寺で同じく無縁塔建立のおり、いまはほぼ落成し、本年陽春の頃に開眼供養するはずが、昨冬着手の際に総代の人々が寺に集まり種々協議をしている時に、見馴れぬ六十ばかりの老婦人が来訪され申すのに、私は遠方より参りましたが、当寺に所縁のもが葬られているので墓参がしたく年々心がけるも何かと障りが出来て来られなかったのですが、今年この度ようやく思いがかなってまいる事が出来ました。
聞けばその仏と言うのは今より四十九年前に葬られたものであるとか、そしてその遠方とは、飛騨の高山から来たとのことでありました。しかもこの老女が続いて申すには、当寺では大勢さんお集まりで何かご相談のようですが、遠方から来た私に差支えがなければ是非聞かせてくれとのこと。これに対し住職は、当寺においては、この度無縁塔が出来ますので、総代の方々が集まりその相談をされているところです。
と答えますと、その老婦人はいきなり立ち上がり総代の席に会釈をしながら進み出て、誠に突然で失礼ですが、ただいま承ると当寺に無縁塔が建立されるとか、どうか私もその仲間に加えて頂きたいと申し出られ、これまでも来よう来ようと思い立っても何か差し障りができて来られなかったのは、こういう結構な有り難い時に引き会わせる仏の導きであろうといって一人大喜びに喜ばれ、旅先のことなので充分な用意はしておりませんが、とりあえずと言って、すぐに若干のお金を寄進され、総代の人々は面を食らった。
それから本堂において住職にその縁ある仏の回向を頼み、それが済むと再び総代の席に進み出て無縁塔にも花立や香炉が必要でしょうと言い、さらに若干のお金を寄進されたので総代一同は折りも折、こういう人が出てきたのも地下無縁の霊が歓ばれている霊験であるとして、大いに勇み立ち奔走されるに至ったのであります。
無縁塔の建立供養は無量の功徳
無縁の仏を祀って供養することは、重ねて申し上げるまでもなく、無量の功徳がありますので、皆様方のようにお寺さんには、きっと多くの無縁墓もお有りの事と存じます。
どうかそれをよくお祀りくださいますようお願い申しますとともに、もしこのような場合私どもは、喜んで出来るだけのお手伝いをいたしますのでご承知おきください。
無縁墓の始末及び取り扱い方の心得
りかたが、感服できないと先ほど申し上げましたが、それはどちらの寺にも三界萬霊と記した塔や碑があり、これらを造り、祀りさえすればその無縁墓、すなわち石塔の方は壊しても潰しても、また他に利用しても良いようにとおっしゃられますが、それは私の考えと大いに違います。
長い年月の間に自然に摩滅して文字も分からないような状態になったり、または欠けたり崩れたりしてもとの姿をなくしたものは別として、満足な石碑をただ単にその家が絶えて無縁になり、露骨に申せば何年も付け届けがないとか、お参りにも見えないからといって、または墓の整理上の問題とはいえこれを潰したり、再利用したりすることはいけません。
無縁墓に対する寺院の心得るべきこと
ではこのような場合どのように処理すれば良いのかと申せば、私は以下のように考えております。
それはどちらの家が不幸にして絶えて無縁になるか分かりませんが、家が無事である間は、出来るだけお寺のことには奉仕もする、熱心な方になるとほとんど身命をかけてもお寺を護りますのは、万一不幸にしてその家が絶え、お墓が無縁になった時でもこれは寺が代わってよく祀って供養してもらえるからで、また寺でもそう為さねばならにものであると私は思います。
このように申しましたら、今の檀家にそんな殊勝な奇特な人はない。また無縁となったお石塔をそのままにしておいては墓地の整理が付かない。
またそれを一々供養し、お祀りしてはとてもきりがない。と言うかもしれませんが、それはあまりにも寺に不似合いな現世的なお考えでありましょう。たとえ在世の折、充分にお寺へ奉仕のなかった家でも、もし不幸にして絶えて無縁になったら寺でこれを供養し、よくお祀りすれば代わって良い檀家が現れてきますから不思議です。
墓石を疎略に取り扱わざること
もちろん墓所の整理と言うことは必要なことでありますから、石塔の処理と言うことは当然です。
そこでこれを動かすのはよろしいが、それを潰したり、再利用などはしないで、同様な無縁墓を一ヶ所に集め祭壇を造り、これにその石塔を何本、何十本、または何百何千本でもそのままの姿で並べ、供養するのであります。
在来の無縁塔の多くは祭祀の意義をなさず
またあるお寺では、潰したり再利用などせず祀ってあるのもありますが、これがまたなっていないのが多いのです。
それは何十本何百本の石塔を無惨にも横にしたり、逆さにしたり、その裏や表にも頓着なくこれを高く積み上げたりして、その上に例の三界萬霊碑を建てたものなどあります。
またあるところには、地蔵さんや観音さんやその他仏体の石塔に普通の石塔も混ぜ加えて、丸いのやら、四角いのやらの、段々を造りその上へセメント付けにしてあるのを見ます。またあるいはそれらの仏体や普通の石塔を半分は土中に埋め処理されたところもあります。
以上いずれもこれでは決して無縁の仏や無縁の墓に同情して真に供養すべく祀ったものではなく、邪魔だから片付けたと言うのに過ぎません。
全くこれでは無縁さんも救われないのみならず、あたかも刑にでも処せられたようなもので、生かして祀ったのではなくて、殺して曝したようなものであるから、無縁さんも喜ばないばかりか、こう残酷に扱われては浮かぶどころの沙汰ではなく、返って怨みはしないかと思われるのであります。これについての例は沢山ありますが、
墓石の悪利用 実例
先年地方のある寺へお墓を見に行ったことがありました。そこの墓所は本堂の後ろ山にあるので、坂を上ってゆかねばなりません。
その坂には、石の階段が幾段となくありました。
私が上がりかけて図らずも眼に入りましたのは、その階段は石塔であります。
私が驚きましたのは勿論、もったいない、こんなことをしていかにお寺さんでも障りがなくて済むでしょうかと申し、その石塔の階段を避けまして他の道から上りましたが、その時墓を見について来たものが十人ばかり居りまして、私の独り言を聞きましたものですから、こういうことをしても良いのですかと尋ねるものが居りました。
そこで私は申しました。無縁だからとてこう残酷に扱われては浮かばれないのみならず、どうかするとお寺さんに障りが出てきますよと、申したことがありました。
その後一行のうちの一人が、この話をその住職にされたそうです。そうすると住職の申しますのに、あれは無縁でもうお性根を抜いてあるからなんでもないと言われたそうですが、このお寺さん、これが気になったと見えまして、ここに戒名などが見えるからそんなことをいうのだろうとのことで、セメントでことごとくこれを塗りつぶしました。
そうこうするうちにそれからものの三十日と経たないうちに、二十数歳の、しかも秀才の譽高き相続人の一人子が変死されてしまいました。
その時、前に私と同行された一人の人が、他の人々にとうとう無縁様の咎めが出て来たと言われたそうです。
とにかくこの息子は住職以上に檀家の人望がありましたので、大変惜しまれたそうです。
その後一年も過ぎるとその住職も果てまして、跡は養子が来て法統を継ぐことになったそうです。
特設墓地 実例の二
災地のことですから例の特設墓地でなくてはならないので、この寺などは東京でもかのコンクリートの墓所を造った一番先駆の方でありました。
この寺におけるその特設墓地の構造は、屋根のある堂棟造りのものでしたが、ようやく竣工したばかりのところへ私どもは、そのかたわらを通る道すがらこれを見まして、まだ東京でも珍しく、ことに私もその時初めて見たのですが、異なった構造ですから立ち寄って詳しく見ましたが、これがすなわち噂に聞いた特設墓地なのでありました。
今はもうあちこちに出来まして、皆さんもご承知でしょうからその説明は省きますが、その時私はしばらく去りかねてこれを熟視いたしました。このような墓が出来てその墓の持ち主は将来はたしてどうなるかと、考えておりました。
百戸でも二百戸でもの墓が、一繋ぎになったコンクリート造りで等級に区別され、一等級は四尺四方で何百円だとか、二等級は三尺四方で何ほどだとか、三等級は二尺四方で幾らだとか、あたかも汽車か劇場かの席の如くでありました。
やがて私の胸に浮かんで来たのは、人々名々の家の状態は、皆ことごとくそれぞれの因縁に依って生じてきたものですから、同じように見えても、まことに同じものではないわけで、従ってその墓のごときも名々家ごとに異ならなければなりません。
似たものはあっても、同じものはほとんどないわけなのに、この特設墓地は皆同じであります。 ところでこれはあのおそろしい大震火災で壊されたり、潰されたり、焼かれたりしたあとに、しかも物質上から見る文化だとか、文明だとかいわれる今日のこの世の中に生まれだしてきたのは、いかにも相応の産物であると思いましたが、しかし待てよ、これでは後がない。これは過去ばかりだ。
過去があれば必ず未来がなければならないのだが、この墓には現在がない。
ゆえに過去ばかりで後がないというわけで、その現在がないと言うのは、前にもしばしば申したとおり、墓は相続のものとして代々子孫が順々に建てねば続かないのに、これは一戸に一基を原則として考えられたものであるから、先祖代々であるとか、累代または何家の墓とするより他がないのであります。
これでは到底子孫が絶えてしまうと思い、なお去りかねてたたずみしまま考えておりました。
たちまちこの構造から連想して、近頃流行のアパートの建築が頭にひらめいて来ました。これだ、これだ。やっと結論に達しました。
それはこの特設墓地の墓主は、多くは後が絶えようがどうでもよく、もしたまたま続いたとしてもアパートの何号かの部屋住まいとなって、何町の何番地という一家に住む人ではなくなるだろうと思うに至りました。
すこしお話がそれましたが、特設墓地の感慨に移りました。ようやくそこを去りまして他を顧みますと、そこではお石塔を破壊して砕いております。聞けばそれがコンクリートの材料として使われるのであるとのことでしたから、同行の人に申しました。
これでは檀家の将来より先にひょっとするとここの住職が何とかならねば良いがと、話をしました。
それから半年の経たぬうち、その住職は四十数歳の働き盛りであるのに、急死されてしまったとのことで、寺では後の事業を頓挫して困っているとのことを後で聞き及び誠に気の毒のことと思いました。
無縁塔の修理
お墓を粗末に扱った在家の人は勿論、お寺さんでもその外石工などの類にいたるまで、終わりをよくしなかった例や特設墓地の築造以来、その寺々の住職で変になったものの数もずいぶん少なくはありません。
今一々さらにその例を挙げますことは省きまして、ご参考までに私の営みつつある修理の概略を述べますと、その無縁墓を集めまして台石を使って祭壇を築きます。
その祭壇は地形によりまして種々にいたしますが、それが平地なら四方正面の雛壇式にするとか、山に沿うとか、丘によるところならば一方面の雛壇式にするとかいたし、その段の数や広狭は祀る石塔の数によって幾段にもいたし、また広くも狭くもいたし、その祭壇ができましたらこれに随喜の善男善女集めまして、祀るところの石塔をことごとく苔を拭い、きれいに洗いましてその大小長短を見計らい、見る眼にも多少感じのいいように段の上へあたかもお雛様を並べたように並べてお祀りします。
またその祭壇の築造は別ですが、お石塔を並べるのに決してセメントを用いません。
その霊が自由に遊行できるようにそっと飾り立てますのであります。
この無縁になった仏にも種々、様々ありましょうが、ここにおいてそれがことごとく一連托生、平等に、大切に、懇ろに扱われまして供養されるのでありますから、喜びもいたしましょう。
浮かばれもいたしましょう。これを造りました所、また出来ましたお寺、なおまた発願随喜の人々に吉事祥事を示されるのでこれが窺われるのであります。