昔の墓についてお話しする前に墓と関係があるわが国のお寺の起こりについて少しお話をしておきます。
寺院の起源
今日、お寺はあたかもお墓のために建てられたように見えますが、昔はそうではなかったのです。 その一家一族の現世の幸福と未来の安楽を祈るため寺を建立し、仏様を祀ったのでありました。 これがすなわち氏寺であります。 氏神ということはいまさら申すべきものではありませんが、 各市町村にそれぞれ祀られてあり皆様ご承知のことですが、 この氏寺についてはあまり無関心のようです。たとえば、奈良の東大寺は朝廷の氏寺ですし、 同じく奈良の興福寺は、藤原家の氏寺として有名です。
浄土教と墓所
浄土教が盛んになるにつれ(祖先の)追福のため墓所に寺を建立する機運が起こり、 藤原家においては京都市外の木幡の墓地に淨妙寺を建立したのがそれにあたります。
禅宗の塔頭
禅宗が伝来して以来、その寺の中に墓をつくり、塔頭を設けるに至りました。 塔頭とは墓番という意味です。徳川期になると「宗門改め」すなわちキリスト教の禁止以来、 貴賎問わずみな檀那寺が一定され、終には寺は墓番が専業かのようになりました。 徳川期の宗門改めの結果、嫁に行くことも、婿に行くことも、また奉公にあがることも、 旅行することも、檀那寺が承認の印を押した書類がなくてはならなかったのであります。
石碑、石塔
それから、はじめに申しましたが、単に墓といえば、人の死体を埋葬した所のことで、 その上の建築物ではないが、今一般に墓といえば、死人を埋葬したところも、 またその上の建物すなわち墓標、石碑、石塔、ことごとく墓と申しましてとおります。 しかし私がこれより、お話もうす墓という言葉は、きわめて狭義のほうで、 すなわち石碑、石塔に限ったものとご承知を願っておきます。
わが国において一般国民が、その外部的設備として、石碑、石塔を建て、 これに法号または戒名を附するに至ったのは、徳川幕府以来、すなわち檀那寺関係のおこった以後のことであり、 古くても三百年に達するものはまれで、多くは貞享、元禄以後の二百四五十年に達するものが古い部類であり、 それ以前の正保、慶安、承応、明暦、万治、寛文、延宝などの年号のものは絶無ではないが、ほとんど稀有であります。
行基菩薩の墓
さらに、いにしえにさかのぼり文献によれば、大和の國生駒郡生駒村大字有里の行基菩薩の墓に、 多宝塔を建てられたことの記録があり、それは今より千百八十二年前の昔、 平城右京の菅原寺に寂せられた同菩薩の墓誌銘によって知ることが出来たのです。
日本最古の墓
さらに今日、形が現存するもので最古のものは、 大和の國高市郡高市村大字稲淵の龍福寺にある石造の層塔一基であります。 これは、その初層の周囲に昔阿育王云々の銘があり、表面の風化がひどく、とうてい全文を読むことが出来ませんが、 末尾に天平宝字三年および従二位等の文字があり、これを金石文考証や、日本図経を参考にすれば、 従二位の下に竹野王とあったようです。結果、これはおそらく竹野王の墓標として建立されたものでありましょう。 じつにわが国において銘のある石塔の中で最古のものであります。 天平宝字の三年は今から千百七十二年前の昔であります。
石造の卒塔婆、五輪堂(原文のまま)、宝筺印塔
それから平安時代になって、多宝塔や層塔のほかに 石造の卒塔婆が起こりました。 これは初めには供養のために建立されたものでありますが、後には石塔と同じく墓の標(しるし)となりました。 そのあと、草堂または小堂を建立する風潮が起こり、これが後世、霊廟の起源をなしたものであります。 またこの平安朝時代には石造の五輪塔や宝筺印塔などが起こり、広く建立されることになりました。
堂塔の墓所
以上はおおむね皇室において行われた御陵墓の事例でありますが、 堂塔を建て墓所にする傾向はやがて貴族にも用いられるようになりました。 そして鎌倉時代になると武家も墳墓堂を建てるようになりました。 あの奥州平泉中尊寺金色堂の下には藤原清衡、基衡、秀衡三代の遺骸を葬ったことは有名なことであります。
板 碑
それからこの鎌倉時代から板碑と称し、緑青岩すなわち青石、 または秩父石とも言う薄くて硬い自然石の平石で造られたものが建てられるようになりました。 これは元来卒塔婆と同意義のもので、もっぱら供養のために用いられたものであります。 昨今、好事家や考古学者の間で非常に珍重されるものであります。 これは足利時代になって最も全盛を極めるようになり、そのころの板碑には、
逆修の意義
往々にして逆修の文字があるのを見ます。生前に碑をたて、未来の冥福を修することを逆修といいます。 すなわち応永、応仁の戦乱の時など出陣に際してこれを建てたがついに戦死して、 これが墓碑になったものも少なくないのであります
供養と墓碑
供養のために先人の建てられたものを利用して、後人がその背面に法号または戒名などを刻入し、 これを墓碑にした例もまた少なくないのであります。 このようにわが国の古(いにしえ)の時代の石碑、石塔の種類は多様で、 多宝塔、層塔、五輪塔、石造卒塔婆、板碑そのほか五重または七重の層塔、 あるいは十三層塔、または宝筺印塔のように種々あります。 ようするに徳川時代にいたるまでは以上の種類の物で、 その大体が皇室、貴族、武家、その他には名ある法師とか門閥に限られて建立されたものであります。
一般民衆墓の起源
徳川時代になって一般国民が広く墓碑を建てるようになりました。 このかたのものを挙げますと、前述の古来各種のものを踏襲し用いられたものも少なくありませんが、 この時代の古いところでは、石造の祠形(ほこらがた)、仏像、たとえば、阿弥陀如来とか観音とか地蔵とかの類。 それから卒塔婆形の石碑、屋形すなわち石塔の頭に仏堂の屋根御拝の形を頂いたもの、 それにまた、根府川石や普通の自然石などを用いたもの、 その他今日一般に用いられる切石でつくられた各種のものでありますが、 この約三百年間のものを形によって時代を区分するとおおむね五六期に分けられます。