病気の平癒(実例の三)
また一つの例を挙げますが、元奥州のある大藩の領内に住居していた豪族が有り、明治維新後は家運もやや衰微しまして、 去る年から一家東京に出て、その相続の息子が、後に外国に行きまして、一つの事業を修得して帰国し、 この東京において目下盛大に営業しつつあります。
その方の奥様が病弱で、常に医薬を離せないために誠に寂寞を感じられるのですが、 はからずも縁ができてその主人と知り合うことになりました。
いつもその奥さんの病弱なことをおっしゃるので、一度詳しくその家の状態を聞いてみたところ、 その家はご主人で十二代も続く旧家の方であるが、このご主人の母親はこのご主人を産むと一年経つか経たぬうちに 何か事情があり離縁され、爾来継母が来てそれに育てられて成人したのですが、 もはやこの主人もその齢、知命の五十に達せんとしておれば、その生母が今日なお生存するや否や分からぬのはもちろん、 それを今日まで省みたこともまた思い出したことすらないということでしたから、それはよろしくないと申し、 前の例やその外、生き別れの母がその子を忘れる時は、その子は育たないもので、ことなく成人するのは、 その母がこれを忘れていない証拠であることをよく話し、一度その生母のことを調べてきなされと申し、注意を与えたことがありました。
その主人はこの話を大いに感動され、物心を覚えて以来、いまだかつて郷里の奥州にゆき、 先祖の墓はもちろん、家の跡さえ見たことがないと言う人でしたが、急に帰省して、 その先祖の墳墓を省みてあわせてその生別された母のことを尋ねてみると、 この家を離別して後、さらに七八里も離れた他郡のある家に嫁したが、 今から十余年前、病床においてもこの生き別れの子を思い煩いつつ亡くなったことが分かり、 その後その墓所まで訪ね行き、別後四十幾年最も感慨深い墓参をして帰ってきた。
その話を聞いた時、生母はもはや亡き人になっているので、父親と一緒に一基の石碑を造りお祀りすることが良いとお話しましたところ、 これも早速その運びとなりまして、その建立を待ち、その生母のために法事を営むことになりました。
すると間もなくその奥様の病気、しかも十余年来の長患いも忘れたように平癒して、夫婦の歓喜は例えがたきものがありました。
実例の四
ある家ではまた、その家の相続人である十歳ばかりの男の子を亡くしまして、どんな墓を建てたらよいかと訪ねてきました。
子供がなくなるということは、前にも述べたとおり、その家に祀られていない仏があるのでしょうが、 先祖からのお墓があれば、一度それを見た上にと申し、その家の墓所、すなわち谷中へ案内されてその家のお墓を見て戻りました。
主人に対して、あなたの家には相当の家柄の家から婿さんか嫁さんかまたは養子が来て、その実家が今は潰れているものがあるでしょうが、 如何ですかと訪ねましたところ、ご主人も奥様も変な顔をして考えておられましたが、 先祖がこの東京に出てからまだ三代にしかなりませんが、どうもそう言う親戚があった心当たりはございませんという。
それがなくしてあの墓ではあなたのこの事業、すなわちこの店舗、この商売の状態は出てこない。 どうもあなたの家には、必ず二家の仏があるに違いないが、思い当たることはないかと再考させましたが、 どうもないと言い、もしそれがなければどうなりますかと、尋ね返されましたので、 どうなるか私には分からないが、どうもそれがないとこのあなたの事業も、根のない花のように思われますがと申したところ、 ではどのようにすれば良いのかと熱心に問われました。
そこでもし私なら一基の塔を建てると申しましたら、 それではそれを建てますから指導してくれと、真心こめて熱心に望まれるので一つの塔の図を書いて与えました。
するとこれを建てるに至った。もちろん当初の希望であった子息のお墓は別に図を書いて、 これには一躯の地蔵尊を建立するに至ったのですが、その塔の方はすなわち宝筺印塔と称する功徳塔でありました。
そうしてその塔が竣工したので、開眼をしたのが今より四年前の三月十六日でありました。
それから三年後の昭和四年の一月になりますと、図らずも未知のある人から書面がまいりました。
それには、このような手紙を上げますが、もし間違っていたら平にお許しを願うとかいてあり、 要約すると、その人に親戚があり、その親戚のためにある事柄を尋ねて同じ姓の家を捜しておられるようで、 その家の事柄とは、五十余年のむかし、その家の奥様が男の子を生み間もなく病死された。
そのためこの家と同じ姓の家にその男の子を里子として預けたとのこと。
しかし、その後その父親も続いて相果てて、後は親類などの後見で番頭らが店舗を預かったそうですが、 不幸にして継続が出来ず、終にはその家は一時断絶するに至ったそうです。
その家は小石川の白山附近で名字帯刀なども許されていたかなり家格のある家柄とのこと。
その家にとってはその預けた子供は相続人でしたが、 そのようなわけで、月日が経つうち預かった家のほうも何所に引越したとみえ分からなくなり、 以来五十有余年、この手紙をよこした親戚の人も六十余歳の高齢になり、生存中にその家を探し出し、 その親戚より預けられた人の生存を確かめ、もし今も生存するなら、その生家の有様も告げ、親戚の名乗りもいたす希望をし、 その旨を尋ねる内容が詳しく書かれておりました。
証拠物としてもしたずねる家であれば、笹の葉の定紋がついた短刀があるはずとのことであったが、 不思議なことにこの家にそれに該当する短刀があることのことでした。
とにかく一度その人に会うことこそと思い、この主人が手紙の送り主を訪ねると、 だんだん話を聞き、ほかの証拠であるこの主人の父親の名前にて出された里扶持の受取書などもあり、 この主人が尋ねられている人である確証としては、この主人の戸籍を見ると養子となっておるのです。
これについては、少年の頃、このことを尋ねたそうです。
その時両親が申したのは、お前は父が四十二歳のときに生まれたので、 四十二歳の子は捨てなくては育たないという慣習に従い、一度捨て子とし、知人に拾って籍まで入れてもらい、 さらに養子として当方にもらいうけるに至ったものだから、戸籍は養子になっているとの説明を聞き、 それを信じて今日まできたとのことである。
両親は自分に子がないのを幸いに預かった自分をその子として育ててくれたのかと、 初めて合点が行くと同時に、そのことを話すと先方でも大いに喜んで、それではあなたが尋ねるその人であったのか、 実はこちらは従兄弟に当たるものであるとのことから、あなたがそれなら、あなたにはまた、実の姉さんが生存していて、 それはこの東京より五六里西の方の村落で、大百姓のところに嫁している。 その大百姓は、年々この東京に沢庵の漬物を五萬樽も出しているとか。
話を聞いたらその姉さん、どんなに喜ぶことであろうと、ここにその従兄弟と親戚の名乗り合いができまして、 それからその実の姉さんとこの主人すなわち弟の間に初対面の幕が開けられるに至ったのです。
それはちょうど五十四年目で、あの塔を建てて三年目、しかも開眼された同じ三月の二十六日でありました。
奇遇というか、不思議と言うか、四十年目に訪ねあっても、三十年目に訪ねあっても、また二十年目に訪ねあってもよさそうなものだが、 五十余年の今日、しかも不思議な塔の引き合わせか、誠に不可思議の至りであります。
以上誠に小説か講談めいたお話ですが、私の扱いました実例の中からひとつふたつ挙げました次第で御座います。
なお、他にも種々なる物がございますが、あまり長くなりまして時間の余裕がなくなりますから、この辺で切り上げまして、 あと少々お墓の整理と無縁墓の供養、ならびに墓相についてお話もうし、本日のお話を終わることにいたしますから、 今しばらく御清聴をお願いします。