■吉相墓のルーツ
吉相墓は、中国古代の教えが、わが国に伝わり、
長い研究の歴史を経て今日に至っております。
吉相墓のルーツを辿ると、古くは中国の殷の時代(中国最古の歴史的王朝)に「風水思想」という墓地の吉凶を鑑定する学問があり、わが国では、聖徳太子がそのことに造詣が深かったと文献には記されていますが、今日にみるスタイルが確立されたのは、昭和に入って初代竹谷聰進師の研究成果によるところが大きく、師によって完成されたといえます。
師は、歴代の墓相学の権威者(文化・文政年代=1804~1830=の国学者高田松屋師をはじめとする諸先生方:西岡師、大浦師、多田通幽師《中山姓ともいう》、松崎整道師《近代墓相学の先駆者》)の教えを受け継いで、27才の時から30余年間墓相の研究に没入、全国のお墓を物差しと磁石、カメラを持って検分し「先祖の祭祀と家庭運」という関係について調査致しました。
結果、「墓は子孫の禍福と財産の関係を如実に表わす。墓はその家、その人の運命を開くだけでなく、一族一家の盛衰にもかかわる」と、その膨大な調査資料において93%以上の確証をつかみ、世のため人のためにその事実をひろく世人に知って貰おうと著書にして発表されました。〈昭和24〉
墓相学の権威
松崎整道師:
松崎整道師は、汽船会社の社長藤山要吉氏の秘書をされておられましたが、大正6年に藤山氏が多田通幽師(中山姓ともいう)の信者となり、 同氏に付き添って何回か通幽師に接する間にその思想に共鳴し、後に東京において自ら墓相学を説きました。
無縁墓を募集浄祭し、地蔵行および地蔵流しを修し、更に千灯供養を行うなど、通幽尊師の教えになる福田の一部や行法をする「徳風会」を起こされました。
竹谷聰進師:
明治37年、京都嵐山で出生。幼名は春栄といい若い頃から易学に興味があり、墓相学の権威者 松崎整道師に師事する。
恩師亡き後、徳風会を受け継ぎ、実地研究による墓相学を集大成し、「先祖の祭祀と家庭運」を著わす。師の研究により空前の墓相ブームが到来した。
初代竹谷先生建墓風景
三井家建墓風景-初代竹谷先生
初代竹谷先生調査旅行の一コマ
徳風会地蔵流しでの
小嶋先生(中央) 鷲見先生(右)
初代竹谷先生現地指導風景
松崎整道先生(カゴ) 初代竹谷先生
■お墓によって家運がきまります
■墓の影響力
昔から墓のある民族は栄え、墓のない民族は国としての力がないといわれています。今日、先進国と呼ばれる国々は、すべて墓を建立し、自分たちの先祖を祀り続けています。
墓は、つまり、「伝承」であり、家々の歴史であり、それが国力を高めてゆくのです。
私たち日本の歴史においても、古代から王侯、貴族、武士といった支配者階級のみが墓を建てていました。一般庶民が墓を建てたのは江戸の中期ごろからで、それまでは『墓石制限令』という厄介な背景があって、建立することさえ許されなかったのです。ここに「力の関係」権力者と支配された側をみることができます。
戦国武将の最後の勝利者家康は先祖代々の墓を持っていました。
秀吉は先祖がはっきりしない、つまり先祖の墓すら持っていなかったのです。信長は先祖祀りなんかいらないと主張した現実主義者でした。三者三様ですが、『墓を持っている、持っていない、信じない』そのいずれが「勝利者」になったか、歴史が私たちに教えてくれています。