功徳とは・・・・自分のもっている知識も財産も困っている人に差し上げることだと思います。 あの人は常日頃非常に功徳をつんでいるのに、どうも家庭が良くならない、という話をよく聞きますが、 これは心の持ち方が根本的に間違っているからだと思います、功徳というものは感謝の気持ちのあらわれです。 そうしますと、三万円の月給の方が神社、仏閣や困っている人に千円のお金を差し出されるのは 大変な功徳だと思います。 しかし億万長者が千円寄付されても、それは功徳にならないと思います。 いまここに唐辛子とアメ玉がおいてあると仮定しましょう。 蟻はアメ玉に寄ってくるでしょうが、唐辛子には一匹も寄ってきません。 これと同じように、功徳をつまれる人の許には良い運命にある善意の人が自然に寄り集まり、 商売人や事業家は自然と金に恵まれ、 知識人は社会的に高い地位におし上げられます。 寒さが肌を刺す酷寒に自分の上衣を脱いで、着るものもなくふるえている人に着せかけてあげるほどの心でなければ、功徳をつんだとは思えません。 自分の欲しいものも買わずに始末して寄付するのが、真実の功徳ではないでしょうか。
陰徳とは・・・名前を出さずに善行をつむことだと思います。 何十年も欠かすことなく放生会をする人や、多勢の人と一緒に無縁さんをつみ、お墓を掃除する人、 人命を助けながら名前も告げずに立ち去って表彰されない人、一代の間、いつも笑顔で暮らし、 人をおこらさず、敵をつくらない人などは次の代に子供全部が金銭や子宝に恵まれます。 一代に相当の財を残される方は決断力にとみ、気の短い人が多く、 肺腑をえぐるような鋭い言葉で、人の心を傷つけることがあるでしょう。 こんな人はいくら頭がよく、金銭、物質に恵まれても次の代は苦労する人が多いのです。
信仰とは・・・神でも仏でも、信仰とは大変むずかしく複雑怪奇なものだと思いますが、 信仰ほど心の安らぎを得られるものはありません。 どの宗旨のお話をうかがっても、涙のこぼれるほど善いお話ですが、宗派によっては他宗を邪宗だ、と言っているのを聞きます。 こうなると何が良いのか悪いのかわからなくなります。私は常々思うのですが、自分が良いと信じること、 それが信仰につながればいいのであって、信じることのない人に宗教は通じないのだと思います。 例えばお寺様が石碑にお性根を入れたり、ぬいたりなさいますが、お性根は形がなく目に見えないので、 お寺様が「お性根を入れました」といっても、ほんとに入ったのか、入ってないのかわからない。 昔ならいざ知らず、二十一世紀の今日、形のないものを信じる人は少ないと思います。 しかし、信仰心によって「入った」と思えば入っているのであって「ぬけた」と信じればぬけているのだと思います。 「信じるものは救われる」とキリストは教えておられますが、何宗でも教義がその家庭の人に合い、 一番よいと思う宗教が強く信仰につながり、幸福な家庭になります。好きな宗派を信じることは人間の権利であり、幸せをつかむもとだと思います。
墓相とは・・・万物すべてに相に支配されます。まして現代はデザインの世の中です。 デパートに並んでいる時計や着物もデザインの良否で売れゆきが違います。デザインは即ち相です。そして墓にも相があります。
竹谷先生は、カメラで物差しと磁石を使い、長年の研究と統計によって確率93%という前代未聞の吉相墓を考え出されました。 百円は百十円に使えません。百円の相は百円です。福相の石碑は財産に恵まれ、傷石の石碑は病気をよびます。 竹谷先生がつくられた徳風会の指導をうけて、吉相墓を建立されたご家庭で、功徳、陰徳、信仰をつんでおられるかたに不幸はありません。 墓の相は二十年前も今も同じです。法名も字の相によって、家庭に良くも悪くもひびきます。誰でも幸せを願うでしょう。 私は確信をもって相を信じます。吉相墓によってご家庭の幸福をつかんでいただきたいと思います。徳風会は陰徳つみと墓相の相談所です。
悪相の墓はいくら拝んでも、信じても良くなりません。悪相墓を吉相墓になおすことによって、 幸福な家庭に変わった事実は三十数年間の統計にはっきり現れています。